仮面ライダー・フォーゼ 第48話(最終回) 『青・春・銀・河』

とうとう最終回を迎えた、仮面ライダー・フォーゼ。

TVシリーズ最後の敵は、身近な人間を積極的に踏み台にしようとする男、理事長の我望でした。

TwitterのTLで、
「主題歌の“限界なんてうちやぶれ、自分の手で”を実践したのは皮肉なことに我望」
という意見を見たんですが、それは恐らく違うのではないかと思います。

我望だって天高生徒やホロスコープスがいなければ“限界”に近づくことができなかった。
本人が利用しただけのつもりでも、少なくとも自分“だけ”の手によるものではありません。

仲間の夢や目標を尊重する如月弦太郎に対し、他者に対し存在価値を見いだすことができない我望光明。
友情がコズミックエナジーを引き寄せるフォーゼ世界で、彼に勝機は無かったのです。

若者「達」は、アストロスイッチでその扉を開き、未来を創る。それが仮面ライダーフォーゼ。

しかし、体育館での「卒業式」は2つのことを同時にやろうとして結果的にカオスな描写になっていた感がありますね(^^;)
如月弦太朗が全身全霊、己をぶつけることで理事長に訴えること。
そして、天高が自分の物でないと思い知らされる事で会心へ向かうこと。

前者は弦太郎がこれまでやってきた事の延長です。変身を解いて理事長に殴りかかるのも(笑)、自分をさらけ出して激しくぶつかり合う、弦太郎流。
意見や気持ちをぶつけあうのと物理的にぶん殴るのは全く違うんですが、弦ちゃんにそんな事判るわけ無いじゃないですか(笑)!!
だから生身で魂込めてぶん殴る。

この描写はやっぱり、1対1の対決であるべきなんですね。天高生全員で取り囲んでる図は(^^;)

そして、もう一つ。
天高はホロスコープスを集める為の実験場程度にしか思っていなかったのに、学生たちが青春を謳歌し、将来を夢見る場になっていた。
我望自身が目をそむけたい部分があるのに、当の学生は天高をまるごと愛しているという。あまつさえ、礼まで言ってくる。
ここのシーンは本来、礼を言う学生が多いほうがいいですよね。
天高は手段や道具に過ぎない。それだけに自分の所有物であるべきもの。それが自分の物ではない、という事を認識させられるという事は、
すなわち自分の野望が閉ざされる事を意味します。
さらに言えば、野望が閉ざされ、絶望した物は、自分を継ぐ若者がいることに気がついた時、彼らに託す事が癒しになる……とか、
そういう事をですね、同時にやるとああいうシーンになると(笑)

ラストバトルのシーンは様々な理由で賛否が分かれているようです。
脚本を責めることもできますが、
個人的にはフォーゼのラストバトルの舞台が、ああいう・・・学生が即席ながらも一生懸命考えて考えて作ったような、
そういう場所であった事は割と好きですね。

仮面ライダー・フォーゼ。

前回も書きましたが、平成ライダーや戦隊にすっかり慣れきっていた自分でも面食らうようなライダーでしたが、今ではすっかり愛着が湧いています。
少し不満点を言わせてもらうと、弦太郎やフォーゼ自体が天高でどのような認識をされているのか、という点をもっと描写して欲しかったと思います。
弦太郎の「全員と友達に」を一人一人流石にやるのは無理ですが、教室でライダー部以外の生徒との交流を描写するとか、運動会エピソード、
校内新聞にフォーゼの記事が貼られるとか(笑)

フォーゼの正体をさぐる新聞部の生徒は特にいらないですw

修学旅行など、「高校生ならでは」のエピソードも多く、“学生ライダー”としては満足しているんですが、一方で弦太郎&フォーゼの校内の
立ち位置がわからず、中盤以降はライダー部の中で完結してしまっている印象もありました。
立ち位置の変化がわかれば、「全員と友達になる男だ」が達成されつつあるなーと感じながら見られたと思います。

とは言え、最後の番宣(この後すぐ!)でラビットハッチに集まったライダー部員の笑顔を見ていると、ムラッ気があったり
不器用で凸凹しながら進んできたこの番組自体が彼らの姿に重なり、これもまた“フォーゼ”か、という気になってしまいます(笑)。

園ちゃん先生は映画で出てくるのかしら・・・・?

 

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